毎朝、必ずコンビニに行くようにしている。それが私の朝活だ。この習慣を始めてから昼夜逆転生活といった睡眠に関する問題は問題のないレベルに落ち着いた。というのも、それは朝のルーティーンができたからなのだ。朝6時に起床。30分で支度をし、コンビニへ。簡単な朝ごはんとコーヒーを買って帰宅。家でツイッターをチェックしながらごはんを食べて、食後に薬を飲む。これが精神障害者としての私の毎朝のルーティーンだ。
規則正しい生活を送る、なんて言うのは簡単だが、やるのは難しい。何かに縛られていなければなかなか出来ない事だ。会社に行くとか、学校に行くとか、子供や家族の世話だったり、家族分の朝ごはんの用意があるとか、そういう縛りがあるからこそ人は、嫌々ながらも日々規則正しい生活を送り続ける事ができるのだろう。
一方私は病人で無職。私を縛るものなど何もない。何もないから、規則正しい生活を送りたかったら、自分自身の手で厳しく生活を律するしかない。でも、これがなかなか難しいのだ。
『何の縛りもない暮らし』というところだけ聞けば、世間の人は羨ましがるだろう。悠々自適な暮らしをイメージする人も多いだろうから。だが『何の縛りもない暮らし』というのは、世の中との繋がりが無く、社会的役割も与えられておらず、誰からも期待されず、世に何の望みも希望も見出せない暮らし、それが私の言うところの『何の縛りもない暮らし』の実態なのである。これは決して羨ましがられるような類のモノではないし、むしろ哀れに思われるような対象となる。
でも、人間というのは『負けを認めてからが勝負』なのである。何の縛りもないからといって自堕落な生活を続けていては、それは『自分は愚か者です』と態度で示している様なモノ。そうではなく、例え何のメリットもなかったとしても、人は気高く自分の生活を律して生きていくべきなのだと思う。それが私の朝活の目的で、その他の日常生活全般を維持していく上での一つの指針として私の中で機能し続けている考え方でもある。
無職であるとか、病人であるとか、障害者であるとか、そういう様々な事情がある人であっても、その人が規則正しい生活を送っているなら、その人は立派な人だし、信用のできる人だと評価できる。自堕落な暮らしはしていないという生活実態があるのなら、どんな境遇にある人であっても社会通念上の妙な区別は意味消失し、たとえその人が負の属性を持っていたとしても『あなたと私の人生は違うよね』程度の話として差別的な思考も許容可能なレベルに落ち着くのではないかと私は考えている。つまり真の意味で言えば規則正しい生活を送っているという生活実態こそが人の価値を決めているといえるのではないか。
そんな事を考えながらコンビニへ向かう朝6時半。冬だから、まだ暗い。