この世が地獄である事に抵抗しない

前回のエントリーでこの世は地獄であると書いた。地獄を受け入れて初めて一人前の大人になると書いた。ならば地獄を拒否し『抵抗』する統合失調症というのはこの世界の落ちこぼれなのだろうか。ここから話はぶっ飛んだ方向へ進む。こんな事を考えるのも私の妄想という症状ではあるのだが・・・。

この世界は全てが悪だ。その悪を肯定できないと頭が狂うと言うのが前回のエントリーの概要だが、当然世界には善も条件付きで存在する。ただ無条件の善というのはこの世のバランスを著しく崩す。何故ならこの世は地獄だからだ。地獄に善が増えすぎると地獄が地獄でなくなってしまう。あくまで『条件付きの善』である事が重要だ。

無条件の善とは言ってみればサンタクロースやディズニーランドのようなもので、その夢はいずれは覚めるものである。一方で条件付きの善とは全てについて無条件の善であろうとするのではなく、自分の何よりも大事な物や、人や、生き方を守る為にのみ善を使い、他方でその他の事柄に対しては『悪でいる事を厭わない』といった条件でのみ存在する善である。

神様が居るとすれば、それは古今東西どんな神様でもよいのだが、その神様の仕事は世界のバランスをとることである。世界のバランスというと聞こえは良いが、要は地獄のバランスをとるのが神様の仕事である。私たちの世界よりもっと上の方で神様たちは人知れずこの世界を治めているのだろうと思う。

神様にとってみればこの世に無条件の善が存在すればそれが地獄のバランスを崩すので良く思わない。一方で悪に対して善という観念がある以上は善良な人も存在させないと、これもバランスを崩す。なのでおそらく神様は無条件の善を備える人を統合失調症などにして社会活動から切り離し様子を見ているのではないだろうか。

生まれた時は善でもいずれは地獄に染まり悪になる。これがこの世の定めだ。それがこの世の通過儀礼であったはずだ。だからそれを拒否した者のために統合失調症が存在するのだろう。その証拠になるかは分からないが、統合失調症は青年期に発症する病気であり、先天的に統合失調症で産まれて来る人は存在しない。

では善とはなんだという疑問が出てくる。『無条件の善』が存在できなくてもこの世には善良な人達は沢山いる。ここで重要なのは『条件付きの善』である。これは重要な仕組みだ。この答えはすでに前回のエントリーで出ている。この世の地獄を受け入れ、その上に立って何をするかが人生なのだと書いた。地獄を受け入れ悪に染まるか、地獄を受け入れた上でなお善で居られるか、と言う問題である。

過去のエントリーで私には唯一守るべき指針があると書いた。それは『腐らずに生きていこう』と言う事である。以前のエントリーの真意は、実はこのエントリーで書いているような妄想的運命論から来るものであったのだ。この地獄を受け入れてなお腐らず、悪ではなく善で居続けようという強力な意思が込められていた訳だ。

小難しく書いたが、よく噛み砕いて考えてみれば、これが至極真っ当なことを言っているのが分かると思う。自分の仕事や人生を大事にするのも、自分の家族を大事にするのも、友人・知人・親類を大事にする事も、皆ごく基本的な人間の生き方である。もちろん自分の子供を大事にする事もそうだ。だが一方で生きて行く為には嫌な仕事もやらなければいけないし割り切った考えが必要になる場面も多い。大事なものを守る為に他方で悪でいる事を厭わないというのは万人に共通するところだろう。

これは一見すると自分本位なようにも見えるかもしれないが、重要なのは『自分の大切なモノ達』という自分以外のモノ達へ善を注ぐことであり、決して自分本位な考えなどではない。これも過去のエントリーに書いたことだが、私は『自分がやらなくては楽しくないものというのは往々にして意味のない事だ』と書いた。では何なら意味のあるものなのかと言えば、それは『みんなでやると楽しい事だ』と書いた。この過去のエントリーもやはり私の妄想的運命論から導き出された言葉である。

この一年間このブログには色々な事を散発的に書いて来たが、最初の方から読み進めてきた人は、やっとこのブログの様々な話がリンクしてきたと思ったのではないだろうか。私は人として根本的且つ単純な事がやっとこの歳で分かる様になった。私はこのブログにその事を書きたかった。人間的な成長の記録を残したかった。

このブログの存在意義は主に二つで、一つは狂人というものの存在と日常を身近に感じてもらう為、もう一つは狂人の頭の中を伺い知る機会を提供することだ。今年もあと二ヶ月。今回のエントリーでようやくこのブログも核心に迫り、形になってきたと言える。

もう少しだけお付き合いいただければと思う。