日常に潜む様々な精神障害者 病識の重要性

統合失調症の当事者である私が言うのもなんだが、世の中には本当にキ○○イが多い。世の中は悪い意味で、本当に複雑かつ多様である。

おかしい人から迷惑を被った人達が書いたであろう怒りの書き込みや、それを集めたまとめサイトなどを見ると、本当に酷い話が極身近に存在する事を思い知る。そしてそれが脚色された分を差し引いたとしても胸糞悪い話であることに変わりはない。

私はこのブログの冒頭にデイケアに通ってくるような人は皆優しく無害であると擁護する一文を書いた。それは間違いではない。なら何故こうまでも壊滅的に酷い状態の人達が社会に蔓延しているのか、それを当事者である私が少し解説する必要があるだろう。

答えを先に言うと、ズバリ『適切な医療と病識が分かれ目』である。

私の統合失調症は精神病の代名詞みたいなものだが、世の中にはその他にも様々な病気・障害が存在する。それらは様々なバリエーションを持ち、また症状や程度も人それぞれだ。それらを一括りにすることなど出来ず、それぞれ対処法も異なる。だから何も知らない人がそういった人達に遭遇したらトラブルになるのも当然である。

語弊を恐れずに言うと、本当に広い意味で言えば世の中の人々の半数はなんらかの精神異常を持っている。もっと言えば普通の人なんて居ないのかもしれない。しかし人々には自覚がなく、さらにその中で適切な医療を受けている人は日常生活に支障が出るような追い詰められてる一部の人間だけなのだ。

適切な医療を受けていれば大きな問題はない。ただ、精神医学というのは常に『程度』の問題と闘っている。ちょっとぐらい問題行動があっても社会で暮らしていける範囲内ならば治療対象にはならないのだ。

そしてここが肝なのだが、異常行動をとる人に最も必要なことは、病識を正しく持っているかということだ。この病識があるか無いかが全てと言っていい。

病識というのは簡単に言えば自分が病気であるという自己認識の事である。精神病患者の多くは自分が病気であることを頑なに否定する。一番分かり易い表現は「俺がおかしいんじゃない。みんながおかしいんだ。」という言葉だ。こんなことを言っているようでは病気の回復は程遠いい。

これは精神科医や看護士または当事者の家族が一番苦労する所である。治療するにはまず自分が病気であることを理解してもらわないと、通院も服薬も成立しないからだ。この難しさを考える時、これを皆も自分に当てはめて考えて欲しい。「あなたはおかしいです」と他人から言われて「はいそうですか」と素直に納得出来る人はいるだろうか。

精神病患者が正しい病識を獲得するのは並大抵のことじゃない。時に今までの自分を否定し、時に色々なものをあきらめたり放棄したりしなくてはいけない。それが夢だったり仕事だったり恋人だったりする。多くの人はそれに耐えられない。しかし医療と正しい病識さえあれば、多くの人は社会と共存できる。

病識一つで天と地ほどの差があることを理解すると、先に述べたような異常行動がありつつも野放しになっている人々の事を今まで以上に厄介だと思ったはずだ。しかし彼らをとっ捕まえて病院送りにすることなど出来ない。精神衛生上の問題はやはり『程度』の問題なのだ。そういう人たちがうごめいているのが社会という現実であり、人はその中で生きて行くしかない。

ともすると人は常識という範囲の中で生きていて、他人も同じ常識を共有しているものと錯覚しているのかもしれない。礼儀やマナーといったものは確かに存在するし尊重しなくてはいけない。だが世の中は多様で、医学の面から考えても常識が通用しない相手がたくさん居るのは確かなのである。

常識というものを考え方全般を指して使うべきではない。世の中はまともな人の方が少ないのだと考えてもらいたい。人々の考え方には無限のグラデーションが存在し、その中に人々は分布している。これは受け入れ難い事実かもしれないが、だからと言っておかしい人を責め立てた所でどうにもならない。これを読んで自分はまともだと思った人も、医学の面から見ればおかしい所が一つや二つあるものだ。そのせいで知らず知らずに他人へ迷惑をかけている人もいるだろう。その事を正確に自覚できている人はごく少数である。

これからの時代、おかしい人を考える時、利害や感情面だけではなく、医学の面からもアプローチしてみるといろいろな理解に繋がるのではないかと思う。