障害者の僻みと妬み 酒・車・セックス

今の世に、あまり意味のない三つのものというのがある。それは酒・車・セックスの三つである。これらは、これといってハンデがある訳でないならどんなバカにでも出来る事と言い替えることができる。どんなバカにでも出来るから、世間に広く浸透している。

面白いのは、人々がこの三つの事柄を楽しみだと思っている事だ。時にはこれがステータスになる事もあるし、これらをやらない人は、やる人から見下される理由になる事もある。酷い人はこれらに取り憑かれているのではないかと思えるほど頭の中の大部分をこれらが占領している。

これらの最たるものはアメリカという国の文化であろう。アメリカ人はこれらに国家のアイデンティティーすら感じている。この三つは確かに楽しいかもしれない。しかしよく実態を見てみると、あまり意味の無いものたちだ。なぜかと言うと、それは一番少ない労力で、一番大きな満足感を得られる、一番安い手段と言い替えることが出来るからだ。

現代において、この三つがある限りは人は人生で暇を持て余すことはないだろうが、なんともお粗末な人生と言えはしないだろうか。

なぜこれが意味のないものかという事を考えるには、これを別の視点から見てみるといい。それは他人目線で見てみるということだ。他人が酒を飲んでるのをただ見ているのは面白くない。他人が車を運転しているのもそう。他人のセックスもそう。とにかく他人では面白くないというのが共通項である。

もっとも車やセックスに関しては見世物としてレースやアダルトビデオがあるにはあるが、それは相手がプロフェッショナルだから見ていて面白い訳であって、別に隣の畑のおじいさんが軽トラを運転しているのを見ても面白くないし、容姿が悪いカップルの濡場などを覗き見ようと思う人も限られた性癖の人だけだろう。

自分がやらなきゃ面白くないものというのは、往々にしてあまり意味のないものとして扱っても良い。

じゃぁ逆にどういうことなら意味のあるものと言えるのだろう。それはみんなで集まってやると楽しいことだ。コンサートや演劇といった文化的な場へ出向く事や、街の小さなイベントでも良い。お祭りや結婚式などの行事も、なんであんな面倒な事をやるのか、あれがなぜ良いのかと言われれば、それは『みんなで集まってやると楽しいから』と言う部分が大きい。

しかしみんなで楽しいことをやるのは簡単ではない。安くなく、手間と責任がかかる。でも実はそこが一番重要なところであり、そこにこそ本当の価値があると私は思う。その面倒なことを省いてなお楽しい事をしようとすると、先述の三つのものに行き着くしかない。

だが面倒でも良いじゃないか。自分が楽しく、みんなも楽しい。みんなが楽しければ自分も楽しい。これは実に良いサイクルだと思う。

ちなみに最初に酒・車・セックスをボロクソに言ったのは、それをすることが出来ない私の僻み根性である。

私は持病の薬を服用している限り酒を飲んではいけないことになっている。だから私は自分の人生で一度も酒を飲んでいない。親友の結婚式の時でさえ断った。ああいう場で飲まないのは一般論でいえば失礼にあたる。しかし持病が持病だけに、もし酒と薬で問題行動を起こせば結婚式が台無しになる恐れもあるだろう。だから私は心を鬼にして酒を断ったという訳だ。

車の運転も私の持病が絡んでくる。統合失調症患者は事実上免許が取れないということになっている。免許を取るには、病態が非常に良好であるという事を示す必要があり、詰まる所医者の診断書がいるのだ。また服薬している全ての薬の注意事項にも『車の運転は避けましょう』と書いてある。

これらについて、同じ病気を抱える多くの人たちは、まだ病気になる前に経験済みという事も多く大きな問題はないのかもしれない。しかし私は未成年の頃に発症しているので、結果として人生で一度も経験できずにおり、これからも経験できないであろうと思う。これには強い劣等感を感じる。

最後にセックスについてだが・・・、お察しください・・・。