私は本を読むのが大の苦手である。本は苦痛でしかなく面白くも何ともない忌むべき物だった。しかし勉強をするにしても新聞を読むにしても活字は避けて通れない。私はそれがコンプレックスだった。だが私は自分の脳味噌の構造について画期的発見をしたのだ。それは単純明快だった。『女性の書いた文章なら何の苦もなく読める』という発見だ。
ある時私は放送大学のテキストと格闘していた。私は学問を修めることを志していたので、大学卒業は絶対条件だ。なのに大学から送られてくる大量のテキストが、私にとって高いハードルだった。
しかし『日本語からたどる文化』という授業のテキスト(本・印刷教材)を読んでいるうちに今回の妙な発見があった。この科目は大橋理枝教授とダニエル・ロング教授、二人の教授による科目だった。全15章のテキストは、章によって二人が分担で執筆していた。私はロング教授の章はこれまでのように辛かったが、大橋教授の章はいとも簡単に読み進めることが出来るのだ。
この事実から今日やっと自分の脳味噌のヘンテコな構造を把握することが出来た。つまり私が本や活字が苦手だったのは、著者の多くが男性であった事に起因していたようなのだ。
過去を振り返るに、私が難なく読み進められる例外的な小説があった。それは「西の魔女が死んだ」と「博士の愛した数式」という本だ。これらの本の著者はいずれも女性である。どうして今までこの事実に気がつかなかったのだろうか。またなぜ私の脳味噌はこんな事になっているのか。なんにしても活字という媒体において、私の脳味噌は女性の書いた物しか受け付けないようになっているみたいだ。
私は学問を修めたいと思っていると書いた。進みたかった学科は情報学である。私は長年プログラミングについてコツコツ勉強していたのだが、一向に身につかない。私のプログラミングスキルは未だに中学生レベルである。情報学が聞いて呆れる無惨な現状だ。
しかし情報学全般、ネット社会全般に関しては、長年の実体験により多くの知識を有している。情報学に関する熱意は冷めることなく私の大きな目標となるが、このプログラミングに関してだけは苦手意識を通り越して劣等感さえ生み出した。
これの原因はコンピュータ業界が男社会で、書籍や解説サイトのほとんどが男性によって書かれていた事にあるらしい。書籍を出すほどの女性の技術者は皆無に等しい。私は今回の発見により自分自身にある病的な問題がプログラミングスキルに直結している確信を得たのだった。
また数あるプログラミングの書籍の内、これまた例外的に読み進められるものが存在する。それはRubyというプログラミング言語の入門書『初めてのRuby』である。著者のYuguiさんは自身のブログなどで自分が性同一性障害であることを公言している。
彼女のブログでは専門的な話題や哲学的な話題など、レベルの高いエントリーを読むことが出来るのだが、彼女がどんなに難解な話を書いても、私は自然に難なく読み進めることが出来るのだ。私は今までそれが不思議だった。それが今回の発見で説明できる。
彼女はブログで自分の性別について明確に説明している。それは『観点によって異なる』とし、様々な観点から自分の性別について羅列した上で、最後に『私が社会からどう扱われたいのかと言われれば、それは女性である』としている。したがって私は彼女のことを最初から『彼女』と呼んでいる訳だが、私が彼女の文章を難なく読めると言う事実こそ、彼女が女性である何よりの証拠になりはしないだろうか。
これらの状況から考えて、私は今後、書籍や活字(テキスト)については女性の書いた物を優先していこうと思う。大学でも女性の教授の授業を優先して取っていけば良い訳だ。私のコンプレックスや劣等感は解消することが出来るはずだ。
私は持病の問題により普通に出来ないことが数多くある。しかし絶望することはないのだ。出来ないことがあるなら反面出来ることもある。普通に出来ないのなら普通じゃない方法を試せばよい。そういった意味ではこの発見と解決策は簡単な方だ。