人類は増えすぎた? 文化の担い手という視点

あちらこちらで『人類は増えすぎた』というセリフをよく聞くようになった。それはエネルギー問題や食糧問題を議題とする時に出やすい。陰謀論者に至っては、世界の人口を減らすための人工的な災害を起こしたり、ウィルスをばら撒くなどの計画が裏で進行しているといった間抜けな妄言を平気で言う。一体何を持って増えすぎたと言っているのか私には分からない。

逆に私から言わせるとまだ全然足りてない。

それはなぜか。私が論点としたいのは文化の多様性と、それの担い手である人が全然足りないということについてだ。

人が生まれたならば、大抵何らかの特技が一つはあるように思う。問題なのはその特技が数学やビジネスの才能ならば社会的に有利であるのに、実際はあまりパッとしないことが特技の人が大勢いるということだ。

アイスの棒を使って東京タワーの模型を作る人がいるが、それも立派な才能であるし、その完成度は容易に他人に真似できないレベルの人もいる。しかし良くてもイベントで展示されるぐらいで、それでは生活していくことが出来ない。実際は本業以外の余暇で作った物に運良く光が当たったに過ぎない。

ではもし与えられた才能が石蹴りだったらどうだ。子供の頃はまあまあ役に立つかもしれないが、大人の世界で、石蹴りが本職だという人に、私はまだ出会ったことがない。この才能の対象が、石ではなくサッカーボールだったらどんなに良かっただろうか。

似たようなことで言えば、コーラの一気飲みが凄く早い人は、子供時代は英雄のようだったが、大人の世界で目にするのはお笑い芸人ぐらいだろう。だがここにこそ解決策がある。お笑い芸人を言い換えると芸能人である。芸能人をさらに言い換えるならば、それは文化人ということになる。ここでやっと文化の多様性の話につながる。

人口が増えて多様な文化の担い手が増えれば、今までは全く日の当たらなかったニッチな領域が成立し、その需要と供給が成り立つ様になる。多様な文化とそのバリエーションは、ただの凡人だと思い込んでいた人達に思わぬ活路を開く。これは絵師の例が分かりやすい。

大昔優れた絵の才能を持って生まれた人は、紙がなかったので、仕方がないから壁画などを残していった。それが中世ではおもに宗教画や偉い人を対象とした人物画に発展した。後に風景画や抽象画なども評価され、今では漫画にまで発展し、更にそれからアニメやCGが派生した。

ヒップホップの文化では壁にスプレーで描くものなどもある。それらの文化はどんどん発展・進化を繰り返し、その度に制約が少なくなり、より自由な表現を産み出してきた。壁画を描いていた先人たちが現代の事を知ったら、絵師としてこのようなバリエーションがあることをきっと喜んでくれるだろう。

よく考えるとスプレー缶がなかった時代に、ヒップホップアートの才能を持って生まれてきた人は、生涯その才能を発揮する場がなかった。現代において文化の多様性がそれを可能にしたのなら、石蹴りの達人にスポットライトが当たる日が来る可能性も今後十分にあるように思う。

この逆の話がある。昔は重宝された才能が、現在では需要がなくなってしまう現象だ。日本の灯台は、どうやら全てが自動化したらしく、現在日本に灯台守という職業が無くなってしまった。今、灯台守として一流の腕を持って生まれてきた人は、その才能を活かす場が今はもうない。もしそれがその人の唯一の特技であったなら、その人は今行き場を失い寂しい人生を送っているかもしれない。

この例はいくらでもある。町工場の優秀な職人や伝統工芸の職人などに後継者がなく、技術も文化も絶滅の危機に瀕しているものが多く有る。現在草刈鎌を手作りしている鍛冶職人は、日本にたった一人しか居ない。もし草刈鎌にこだわりのある人がいたら、迷わずこの職人さんのところへ行くべきだ。決してこの文化を絶やしてはいけない。でなければ灯台守と同じ事になってしまう。

人類の数が減少したらどうなるか。現代の水準の文化をより少ない人手でまかなわなければならなくなる。その過程で効率の悪いものはどんどん無くなっていき、灯台守が居なくなったように、失う文化も多く出る事になるだろう。そうなると活路が閉ざされ、凡人のまま終わる人も多く出る。

現在、情報革命の影響で、サブカルチャーを中心に文化が爆発的に多様になっている。それに対して担い手が足りない。また昔では農業・工業を担っていた若者が、新しい文化の方へ行く担い手の大移動が起こり、逆に農業・工業の担い手が減ってしまう。その結果、既存の産業の一層の効率化が求められ、今度は農業の世界が灯台守と同じような事になってしまう。

アニメという文化も、農業という文化も、どちらも重要であり両方残さねばならない。それに対してまだ人類の数が足りているとは到底思えないのである。したがって冒頭のような『人類は増えすぎた』という指摘は当てはまらないように思う。私は多様な文化こそが、世の中を面白くするための鍵だと信じている。なので人はもっと増えても問題ない。