センセーショナリズムを用いた報道への疲れ

なんて言ったらいいかよく分からないが、ニュースがヒドイ。

どうヒドイのか良く考えてみたら、行き過ぎた『センセーショナリズム』というものが原因だ。なんでもオーバーに、時に歪曲して大々的に情報が流れていく。テレビのニュースも新聞もネットメディアもどうにもならない。嫌でも目に付くからついつい確認のために観るのだが、内容なんてなんにもないものばかりで、その度に「またか」「時間を無駄にした」と思う。

私はネットのニュースを見るとき、どれがセンセーショナリズムを用いて私にクリックさせようとしているのか、無意識のうちに仕分けるようになった。頭が自動的にスパムフィルタのように機能しているのだ。

最初のうちは仕分ける作業にイライラしたものだが、それも毎日毎日続いてくると、無意識のうちに自動化されてゆく。その一方なんとも言えない疲れも出てくる。ネットは自分で取捨選択する余地があるからまだいいが、テレビは完全に受身だからどうしようもない。

NHKの良さも段々分かってきて、ちゃんと受信料を払う価値が有るように思えてきた。名誉のために言っておくが、我が家はちゃんと受信料を払っている。今まではただ仕方なく払っていたのだが、世の中がこういう風になってくると、今ではその価値がはっきり分かるようになった。

一方民放はやりたい放題だ。最も最善な方法はテレビ自体を見ないようにすることだ。私はもう何年もあまりテレビを見ない生活を実際に送っている。誤解しないで欲しい。私も若い頃は大のテレビっ子だった。まだネットがなかった頃なので、昔の私にとっては最高の情報源として機能していたが、今は残念なことに情報源としての体をなしていない様に思える。あの頃の楽しいテレビを振り返ると、懐かしいと思う反面、現状についてはとても残念に思う。

問題はセンセーショナリズムを実行している人達と、それに踊らされる人達、更にはそれを知っていながらどうにも出来ない人達がいるということだ。これら3つを合わせると、ほとんど全ての人が当てはまってしまう大問題である。


1 実行する人達

発信してる人たちにとってみれば、アクセス数や視聴率、または発行部数さえ良ければいい。彼らは仕事を全うしているだけだ。だがはた迷惑な仕事ではある。


2 踊らされてる人達

なんでも受け入れその気になってしまう。社会的には健全で従順な消費者であり、情報も流行も良い事も悪い事も、何のフィルタリングもセキュリティも無しに受け入れてしまう。だが無知なことがイコール悪とは言い切れない。


3 耐えている人達

それを知りつつただ耐えることしか出来ない。一種の諦めが見られる。


3の人は、2の人をともすると自分と同じだと思っており「あれを間に受けている人なんて居ないよ」「皆知ってるよ」と擁護したりする。しかし2の人が実社会の相当数を占めているが故に、1の人達の仕事が成り立っているという事実がある。ある種の需要と供給の関係とも言える。

攻殻機動隊というアニメを知っているだろうか。TVアニメの第2シーズンでクゼ・ヒデオと言うキャラクターが言っていたセリフが、これらの問題を要約している。

—–引用—–

「最も俺をがっかりさせたのは、人々の無責任さだった。自分では何も生み出すことなく、何も理解していないのに、自分にとって都合の良い情報を見つけると、いち早くそれを取り込み、踊らされてしまう集団。ネットというインフラを食い潰す動機なき行為がどんな無責任な結果をもたらそうとも、なんの責任も感じない者たち。」

—–引用ここまで—–

これは名言だと思う。

ここで言われている人とは2の人に当たる。この2の人達を上手く利用し金に変えて暮らしているのが1の人達。それを知っているクゼ自身は3の人に当たる。センセーショナリズムはこの2の人達を効率的に操る手段として機能し、それが利益を生み、結果現在のニュースがヒドイ事になっている原因となる。結局アニメ本編でこの問題が解決されることはなかった。

私は行き過ぎたセンセーショナリズムに出会うたびに、このクゼのセリフが頭をよぎる。どうにかならないものか。