「相手の気持になって考えなさい」の意味

芸術とは感情の表現である。
それを受け止める人に求められるのは感情移入だけだ。
これが私の持論であり答えだ。

人の感情という情報は本来は容易に伝達できない。思うに人は3つ事柄を伝達することが出来るのだろう。一つは話し言葉や新聞など物事を伝える情報の伝達。もう一つは学術的な理解を万人に伝える、論文などによる知性の伝達。最後は自分の心持ちや気分などを伝える感情の伝達だ。この感情の伝達は人間特有であると同時に、人にとって最も高度で難易度の高い伝達情報である。

人が気持ちを言葉で表現する時、そこには嬉しいとか楽しいとか悲しいとかムカつくなどの最小限の表現しか、言語そのものには内蔵されていない。しかし人の心はもっと複雑で奥深く、その広がりやバリエーションは無限にある。楽しいと一言に言っても、そこには嬉しさや、時には悲しささえも含まれている場合がある。

いくつもの感情が入り乱れるこの複雑な心に対して、言語で表せる範囲は極狭いと言える。小説家などはその複雑な感情を、あえて言語のみによって表現する事を試みている。その結果、ある感情一つを記述するのに、本丸々一冊を費やす訳だ。

また感情は万人に正確に伝わるように論文などで科学的に表現する事も出来ない。論文は知性の表現であり、正確に伝わらないのであれば、それは論文ではない。そこで第三の芸術と言う表現が必要になる訳だ。

過去の偉大な芸術家達がやろうとした事は、『感情の伝達』ただその一点のみに集約される。芸術に触れると、その作品は我々を楽しませてくれたり、時には勇気づけてくれたりするが、それは我々にそれを伝達する事のみを目的に作られたからである。芸術とは感情の表現だから、こちらの感情に影響をあたえる。

そこで受け手に求められるのは何か。感情の伝達に最も重要なことは、受け手がどれだけその作品に感情移入できるかにかかっている。ドラマの主題歌のCDを買ってしまう心理、アニソンに夢中になる心理、これらは興味深い現象だ。ドラマやアニメには、感情移入するに必要十分な情報量がある。単体で聞いたらさほどでもなかった楽曲が、ドラマの主題歌になったら急に良い曲に聞こえるのはこれによる所だ。 またドラマやアニメその物も、一つの独立した感情の表現として作られている。相乗効果も高い。

クラシックの世界においても、奏者は楽曲の作者が生きた時代背景や過ごした人生をよく理解している。全ては感情移入の度合いを高め、それを演奏に生かすためだ。演者に観客が感情移入する事が、芸術の本来の意義だ。

話を戻す。

心はあまりに複雑であるがゆえ、当の本人でもそれが何なのか分からずにいる場合がある。自分でも分からないのだから相手にも伝わる訳がない。日常生活において、皆自分の気持が伝わらずに辛い思いをする場面は多い。多くの人に知ってもらいたいのは、感情には言葉で表現できない複雑なバリーションがあるという事だ。それの理解を補ってくれるのが芸術なのだ。

普段から芸術に親しんでいれば、相手の複雑な心境変化なども、言葉など使わずに察する事が出来るようになる。それは私たちそれぞれの人生そのものもまた、一つの芸術作品だと言えるからだ。相手の事が知りたければ、こちらが受け手として、相手に感情移入出来るかどうかが鍵である。小学校で教わるような「相手の気持になって考えなさい」という類の事は、詰まる所こういう事だったのだろう。

芸術が分からない人は情報の伝達と知性の伝達に依存しすぎている憂いがある。人が心を持っている以上、感情の伝達がいかに重要か、またそれがいかに素晴らしいか知る必要がある。新聞やブログを読んで分かった気になっていてはいけない。そこには情報しか載っていない。しかも極ありふれた情報だ。それでは頭でっかちになるばかりである。

真に重要な事は、人の心の内面であり、それは考え方や価値観などではなく、感情と言う情報である。気持ちさえ伝われば、例え考え方が全く違うような人達とも、容易に打ち解けられる事だろう。

芸術という文化が花開いて、その歴史は長い。知性の蓄積を学校で学ぶのと同じように、人は芸術という感情の蓄積も学ばなければならない。その重要度は、学問の重要度と同等である様に思う。人は他の動物とは違う。人を人たらしめる心や感情というものを、人に生まれた以上はよく理解しておかなければならない。

芸術は決して娯楽などではなく、『感情の伝達』その一点のみの為にある。芸術は、過去の人達が残してくれた最強の感情情報の蓄積である。それを生かすも殺すも、全てはどれだけ私たちが感情移入できるかにかかっている。