貧困の神様というのがいる。世に貧乏神と呼ばれる存在だ。神様というからには何かご利益がありそうなものだが、貧乏の文字からあまりいい印象は受けない、神様の中でもかなり変わった存在である。
この貧乏神は幸せと不幸をやり取りすることを生業としている。片方で幸せを吸い取って、他方で幸せを売る。
貧乏神は家に取り憑く。取り憑いた家は例外なく衰退する。その家は病人ができ、借金ができ、家庭はメチャクチャになる。世間からは「やだねぇ、あの家は。」などと煙たがられるようになる。これは別に貧乏神が不幸を運んでくる訳ではない。貧乏神がその家の幸せな要素をどんどん吸い取った結果、その家に不幸な事しか残らなかったという事だ。
貧乏神は本来、貧乏な人に幸せを売る神であった。それが何故こんな事になってしまったのか。
基本的に古今東西の神様は、商売の神なら商売繁盛を、縁結びの神なら良縁を、というようにそれぞれ専門分野を持っている。それはご利益とというのはいくら神様でも無限には用意できないという事と、そもそも人間は欲を持っている為ご利益を与え続けても切りが無いという事から来ている制限である。しかしその昔、この優しき貧乏神は神様になれたのが嬉しいあまり、多くの人に幸せを安売りしすぎた。その為にすぐ力が尽き果ててしまったのだ。以来その事を反省し、本当に幸せが必要な人の為に力を蓄えるべく手近な家に取り憑いて幸せを吸収する事に勤しんでいる。
貧乏神はいつまでも同じ家に取り憑いているわけではない。幸せを吸い付くし、もうどうにもならないという所までくると、他の家へ行く。この間十年二十年の時間が掛かろうか。貧乏神がよそへ行くと、その家は今までの事が嘘だったように息を吹き返す。
また貧乏神の得意技としてよく病人を作る事が挙げられる。しかし基本的に貧乏神は死人は出さないという方針を持っている。せっかく幸せを吸い取ろうとしている時に、その対象が死んでしまってはどうにもならないからだ。しかし弱っている病人は、貧乏神の影響とまったく関係のない要素によって死んでしまう事がある。その時貧乏神は大変がっかりして申し訳なさそうにその家を出て行く。貧乏神にとって不幸というものと人の死というものは別物らしい。
ところで貧乏神からご利益を得るにはどうしたら良いのだろうか。
貧乏神は貧困のある所に現れやすい。つまり困窮した人だけが願いを聞いてもらえる訳だ。貧困の定義はいたってシンプルで、それは飢えと寒さである。なので貧乏神に祈りを捧げるならば、あったかいご飯と味噌汁、それからイワシを焼いたものを供えると良い。間違っても鯛などを供えないように。貧乏神に限らず言える事だが、神様というのは自分を利用しようとする打算的な人間が嫌いである。貧乏神に対して鯛を供えるなどということは、まず間違いなく欲の皮の突っ張った人間が考える類の発想である。神様に願い事をするならそれは心からの純粋な願いである必要がある。
貧乏神に祈ると幸せを分けてもらえる事がある。しかし貧困そのものは解決しない。ただその絶望的な貧困の中にも、ご利益でささやかな楽しみや活気が出てくる。本当に貧乏な人にとっては、それが何よりの生きる糧となる事を、貧乏神はちゃんと知っているのだ。さすがは貧乏のプロである。
結局貧乏神は何がしたいのかよく分からない存在だ。やってる事がいろいろ矛盾している。しかし良くも悪くも貧困のある所に貧乏神はいるのである。これが貧乏神の神たる所以である。八百万の神がいる国だからこそ存在し得る、ちょっと不思議な神様である。