互いの優劣をハッキリさせるまで続く揉め事

世の中の人々というものは、突き詰めて考えると「優」か「劣」かの二択でしかモノを考えることが出来ないらしい。実に不憫なものである。その様はある種の強迫観念の様相を呈しており、他人を劣だとして見下し、自分を優であると頑なに盲信する。学歴や収入、クルマ選び、恋愛、その他様々なことに対して自らが優でいられる根拠や情報を渇望するその様は、私から見れば異常であるとしか言いようがない。

しかしそのような人間ばかりが出来上がるのは当然でもある。子供の頃からテストの点数を気にして育ち、受験戦争の結果をもってして自分の社会的地位を自覚する。恋人を選ぶ時にもこの優劣的思考回路は機能する。また就職活動やその後の会社での役職などなど、この世に人として生まれた以上、常に優劣を意識せざるをえない状況下で生きてゆくことになる。

それ自体は別段悪い事ではないのかもしれない。言ってみればこれが競争本能の正体であり、それが今日の経済を回している力でもある。でも少しばかり、いや、かなり行き過ぎではないか。

というのも、そもそも自分が努力をして優を目指すということは悪くない。が、現状は大した事のない状況の人が大半である。そういった人たちが自らの優を肯定しようと容易に他人を劣として扱うという構図が問題であるように思う。

そこには他人を思いやる心などあってないようなものだ。口では悪く言わなくても、心の内では他人を常に見下している。喧嘩や、口ごたえなどをされた時は、そもそもの問題に意識を向ける人はほとんどおらず、その怒りの根拠となるのは「劣のくせに優である私に口ごたえするなど許せぬ」といった心理によるものだ。

世の中のイザコザの殆どがこの構図によって引き起こされているので、結局は互いが優劣の関係性をハッキリさせるまで揉め事が決着しない。仮に優劣を決着させたところで、肝心の問題そのものは少しも解決できずに終わる。言ってみればこれこそが人間社会の本質であり、生きるという事は、結局この中で右往左往する事のみに終始するのである。人間というのは実にくだらんレベルで生きているものだ。

しかし私はこれを是としない。こんな事に時間を取られてしまっては、世の中に溢れかえる様々な問題は、一体誰が解決するのだ、ということになってしまう。この俗人的思考回路から飛び出す事の出来る人がもっとたくさん必要だ。今これを読んでくれた人も、自分の価値基準や判断基準が「優」と「劣」に支配されてはいなかったか、一度よく考えてみて欲しい。何にでも言えることだが、まずは自分の脳みそを疑うことから始めるべきだ。