士農工商理論 文化人編

士族・農民・職人・商人、この四つについては基礎編で述べた通りだが、ここに文化人を追加し、この五つをもってして初めて士農工商理論は完成する。基礎の四気質に人々を分類した場合、僅かだがどうしてもそれに漏れる異質な人が出てくる。その人々をまとめて文化人という括りに入れる。

文化人は元々四気質のうちのどれかであった。それがそれぞれの道を歩むうちにレベルアップし、四気質の範囲を飛び出し、縦横無尽に世間を渡っていけるようになる場合がある。それが文化人である。これは人間性の進化と言ってもいい。文化人は四気質を横断する思考が出来、様々な人々に影響を与えるような強烈な気質と定義すべきだろう。

この文化人はさらに二種類に分けられる。一方は最高の人間性を持つ賢者、もう一方は進化に失敗した文化馬鹿である。世間には一般的な意味での文化人というのはいくらでもいる。テレビのコメンテーターやネット上で発信力を持つ人などがそうだ。しかし彼らは賢者としての文化人ではない。既存の四気質の内の人物か、文化人であったとしても失敗した文化馬鹿である。賢者としての文化人は、世の理を熟知していて、本当に重要な事しかしない。小銭を稼ぐために右往左往したりなどは絶対にしないのだ。

文化人の特性として批判精神を持っていることが挙げられる。賢者としての文化人は、常人が理解できる範囲を超えて物事を考えている。賢者からしてみれば、常人が間違った考えや行動をしているのが手に取るように分かるのだ。従って賢者の批判は全てを見通した上での批判なのでじっくり耳を傾ける価値がある。

一方、文化馬鹿の場合は様子が違う。四気質の範囲を超えて物を考える事は確かに出来るのだが、世の理を理解していないので間違った論を叫ぶ。文化馬鹿は自分の論に妙な自信を持っており、そのもっともらしい議論で世の中の人を惑わす。ネット上などで発信力を持っている場合が多いのも話をややこしくする。行き過ぎると反社会的な言動に走る事も多いので注意が必要だ。多くの場合、文化馬鹿の論は四気質の人々では容易に否定できない。腐っても文化人。レベルが違うのである。しかし社会においては傍迷惑な存在とも言え、こうなるぐらいなら四気質のまま真っ当に生きていてくれた方が良かったとも言える。

ところで賢者の文化人について、その能力を示しておきたい。賢者は士農工商理論の中で最強に分類される。基礎四気質を超越した思考範囲、世の理を熟知している確かな目、この二つは社会において最も必要とされている能力だ。彼らの能力は凄まじく、賢者一人で常人千人に匹敵するぐらいの見識を持っていると言える。十人よれば文殊の知恵というが、この賢者については例外で、たった一人に千人寄っても敵わないのである。あと賢者に進化するにはある程度の歳が必要で、それまでは普通に四気質の内の一人として暮らしている。どこでどう化けるかは、その人の生き様による。

文化人という気質の人には通常は出会わないであろう。賢者にしても文化馬鹿にして、その数はごく少数である。それでも二十一世紀の日本は多い方だ。というのも文化人という気質は他の四気質と違い、その国の文明が成熟した時に多く現れるとい特徴があるからである。戦争などで文明その物が不安定な国には滅多に現れない。しかしそこにもし一人でも現れたなら、その賢者は歴史に名を残すほどの成果を上げるであろう。文化人の出現確率は現在の日本国内においても当てはまるもので、文化人の多くは文明の成熟した東京に集中している。これは人口密度の問題、商業的な問題、偶然などではなく、文明と文化人との繋がりによるものである。東京という恵まれた環境が人を文化人に化けさせるのである。

テレビや新聞で、もし「この人はレベルが違う」というような人がいたら、その人は賢者かもしれない。それを見分ける方法は難しいが、四気質を横断したモノの考えをしているか、を分析すれば良いだろう。そうやってもし賢者を発見出来たなら、その人には絶対の信頼を置いてもよい。ただ基礎編でも注意したように、他人の気質を判断するには人を見る確かな目が必要であるという事を重ねて申し上げておきたい。