障害を抱えてどう生きるか – 2014年の方針

前回私の絶望的境地を書いたが、それを踏まえた上で今年をどう生きるか考えなくてはいけない。本来私の置かれた状況は、自ら命を断つに十分すぎる程の威力を持っている。我ながら感心するのは、今もしぶとく生きている事であり、死ぬつもりなど毛頭ないという事だ。なぜなら状況が良くなっているような気がするからだ。

病状は一向に良くならないのだが、人間としてはここ数年、驚異の成長を遂げている。私は一種の悟りを得ているのだと思う。前の医者は同じ所をぐるぐる回っていると言ったが、回っているように見えて、実はこれが螺旋階段だったのではないかと思える。一周回って来ると、一階分上に上がって来ていたような気がする。

一昨年の話になるが、遂に螺旋階段の頂上に登り詰めたとしか思えない境地に達した。あろう事か「ああ、幸せだ。もう死んでもいいや。」と思ったのだ。仏教で言う所の『色即是空、空即是色』を悟った瞬間であった。本当の悟りを開けたのなら、そんな人物が自ら命を絶つ訳ないじゃないか。こう言う様な訳で私は今も生きているのです。

それで今年、私はやりたい事がたくさんある。考えるべき事は考え尽くしたし、あとは実行あるのみだ。で、その勢いで張り切って現在の医者の所へ行き「今年のビジョンはどうしたらいいですか?」と聞いたら、「一言で良い?」と前置きされた上で「生活週間の安定」と言われた。ごく初歩的な事だが的確である。学問をするにせよ社会に出て行くにせよ、これは精神障害者にとっての絶対の条件、必須のステップである。

このレベルの話に健常者はあきれ返るかもしれないが、これが精神障害者2級の直面する世界である。普通の事が普通に出来なくなった人の事を障害者と呼ぶ。この域にいる人間のその状態は、病気とは呼ばず、障害と言わなくてはいけない。それで医者は具体的にどうしたら良いかアドバイスしてくれた。日課を作れ、それは人に喜んで貰える事にしろ、と言うから「それは家事でも良いですか?」と聞くとOKだと言う。家事をすると確かに調子が良い。私はこれからしばらくはそれを頑張るのみだ。

余談だが今年、私は断捨離を実行する。私の部屋にはロクな物は無いのだが、それでも断捨離は必要だ。『坂の上の雲』という作品では、主人公の兄が主人公に「身辺は単純明快にせよ。贅沢じゃァ!」と徹底した指導をするシーンがある。今の私には複雑な生活をこなす力はない。だったら生活週間を改善するには、身辺を単純明快にせよという方針は、唯一有効な解決策であるように思う。

それに伴い、今年私はパソコンをやめる。私を大変可愛がってくれた祖父が死んだ時、祖父の部屋から形見に一枚の習字の半紙をもらって来た。そこには『治道尚玄黙』と書いてあった。これは「道を治めるには、静かで、数が少ない事が尊ばれるのである。」という意味だ。それを持って帰って来た時、この言葉はいつか私に必要になる言葉だ、と思った。そしてそれが今であり、今年である。

幸い情報学者になる夢を捨て、ウェブ開発もする必要がなくなったので、もはやパソコンは必須ではなく、iPadへ移行するには丁度良い時期だ。このブログもiPadで書いている。断捨離とも重なって『治道尚玄黙』を達成する手筈はほぼ整っている。あとは実行するのみだ。今年の方針はこれで定まった。