新年早々妙な話になるが、私は情報学者になりたいという夢を諦める決断をするに至った。以前に書いた通り、私の夢はどんな最悪の状況下においても光り輝いていた。しかし精神障害者という身分では夢が叶わない事ははっきりしていた。それでも状況が好転するのを待ち、自分なりの努力はしたが、上手くいかなかった。
芥川龍之介の『羅生門』という作品に以下のような意味の文が書かれている。それは「どうにもならない事をどうにかしようとして、考えが同じ所を何度も低回した」というようなことだ。私の闘病生活の大部分が、まさにこのような状況だった。
私は以前の医者に、最後の診察の時に聞いた。
「十年以上私を診てきて、最後にどう思いますか?」
医者はいろいろ言った後、容赦なくこう言った。
「結局、同じ所をぐるぐる回っているだけだった。」
私は夢について必死に訴えたが無駄であった。
つまり、現状情報学者の夢は叶うわけないのだから、作業所に行って障害者としての人生を淋しく送れという、医者からの最後通告だ。私の中ではこの夢というものが何にも代え難い生きる為の全てであったし、ほとんど執念の様でもあったが、結果それが事態が好転しない原因にもなっていると医者は判断した訳だ。
私が夢を諦める、それは私が私ではなくなると言う程に重大な事だ。唯一の希望だったんだ。でも医者から見れば、夢を追えなくなって骨抜きみたいになり、まるで廃人のようになったとしても、作業所へ行ったほうが病気には良いという事なのだろう。それが今の私に突き付けられた現実だ。こうなると今までの頑張りは全て意味消失したと言える。
私は今年で三十歳になる。発症したのが十三歳の時だ。人生の大半は病人だった訳だ。そしてその人生は報われなかった。今年、この位置に立ってみて、私には何が残されているだろうか。何もない。ただ側に母と弟が居てくれるだけだ。それと可愛がっているぬいぐるみが二つにiPadと寝る場所のみ。私はゴミ部屋に埋もれている。
物質的な事や金銭的な事のみならず、人として必要なこともない。青春時代の思い出もなければ、社会的に孤立してしまい日常的な人間関係もない。真っ白な履歴書。伸びきった髪の毛。当然恋人のこの字も見当たらない人生だった。「無い物はない。有る物を数えろ。」と言った人がいるが、今の私の姿を見ても同じことが言えるだろうか。
齢三十年。私が夢見た情報学とは何だったのかという自問に対して、私はこう自答する。
それこそが『妄想』という名の狂気だったんだよと。