SNSで自分の障害をオープンにすべきか

私がブログなぞをやったところでアクセス数を稼ぐような人気ブログには到底なり得ない。私は俗人受けする軟派な物事にほとんど関心がない。

私は今日、ネットの世界を縦横無尽に動き回れるようになり、IT業界なぞを十年以上ネット越しに眺めて育って来た訳なのだが、インターネットの中で、ただ一つ、全く関係のない世界として傍観するしかなかったモノがある。それがコミュニティの存在だ。

ネット社会初期、2ちゃんねる全盛の時代があった。しかし私は、あの俗で幼稚なコミュニティが好きになれなかった。友人がどっぷりそれに浸かる中、私はスルーするしかなかった。その次にミクシィの時代が来た。今思うとこれが残酷な時代の始まりだった。私は精神障害者であり、しかもそれを隠し社会から身を潜めて惨めに暮らしていたので、人との繋がりを求める気にはなれず、これもスルーすることになった。

その後ソーシャルネットワークの時代が本格的に到来し、私は世の中から取り残されてしまった。ITと言う言葉は、いつからかICTと言う言葉に置き換えられた。インフォメーション&コミュニケーションテクノロジー。つまりコミュニティを利用しないということは、インターネットを使っていない事とほぼ同義となった。

私はITが好きだ。それは障害者という身分にもかかわらず、本気で情報学者になりたいと思ったほどだった。その身分違いの夢は私の中で光り輝き、どんな苦難の時でも私を支えてくれた。

そこで現状を考えた結果、本当にITを愛しているならコミュニティという世界に一歩踏み出してみても良いのではないかと思った。しかしそうなると、ネット上で、私はどう振る舞えば良いのか考えなくてはならない。

現実の世界に人の繋がりはほぼないので、ネットを現実の延長として使うことは出来ない。障害者という身分からは、いわゆるリア充的な振る舞いも不可能だ。更に自分が障害者だということをオープンにすべきか、という問題も大きく立ちはだかった。

精神障害者というのは、当事者でなければその実態を知る者はほとんどいない。ゆえに社会的に恐れられている。またネット上では、その病的な思考によって厄介者として敬遠され、実際に迷惑をかけている人も散見される。一度コミュニティに出れば、私もそんな事になるのだろうか。それだけは絶対に嫌だ。

知識のない人には説明がいるかもしれない。きちんとした病識があり、医療を受けていれば、その人は障害者である。基本、対等に接して構わない。一方病識もなく、医療も受けていないのであれば、それはキ○○○である。警戒しなくてはならない。この違いが精神病の人と接する時の基準である。

物のついでに言っておくと、世間一般でイメージされる狂人は、障害者手帳の基準で言うと1級の人であり、そういった人とはまず社会では出会わないであろう。ほとんどの人は2級、またはそれ以下の3級である。私は2級だ。私もデイケアという通所施設に通ってみて分かったのだが、私のような病識と医療が十分な障害者は、皆無害である。心がガックリとしていて大抵は人付き合いを苦手としているが、皆心優しく、人に危害を与えようなどという人はいない。

優しいというところは特筆すべき点かもしれない。本当の苦しみを知っている分、人に優しく出来るのだ。人付き合いが苦手なのはその裏返しで、他人を傷つけまいとして対人関係に慎重になっているだけだといっていい。

こう書くとモノの分からん奴は「障害者を美化している」などと言うだろう。低俗なくだらん戯言である。一度障害者と真正面から向き合ってみて欲しい。往々にして、低俗な否定が来る場合というのは、物事から目を背けた結果から来る反応である。

障害者の説明に多くスペースを割いたが、ここが重要なところだ。私がコミュニティに踏み出す場合、障害者としてのアイデンティティを出した方が多くの事を語ることができる。しかしうかつにソーシャルネットへ出れば、迷惑をかける側にもかけられる側にもなってしまう。

そこで、いささか時代遅れではあるけれど、ブログを書くことにする。ここなら誰にも迷惑がかからない。また、わざわざここまで来てくれた人とならばいくらか言葉を交わしても問題あるまい。ひっそりとしてはいるが、ここが私にとってイキイキとできる場となることを願う。

今後、長門志気をどうぞよろしくお願い致します。