本物の大学
努力とは何なのかについて考えてみたいと思う。
私は今学期で放送大学を卒業する見込みである。病気になってから入学し、闘病のかたわら、かれこれ13年も在学していた。私は中学で不登校になり学校へ行かなくなった。高校は定時制高校へ入学したが、そこもすぐに行かなくなってしまった。なので中学高校と6年間分の教育が普通の人より足りてない。そんな私が放送大学の卒業まで漕ぎ着けたのは、ひとえに『卒業への執念』だった様に思う。しかし執念でも何でも13年間粘り続けたという事と、諦めずに継続し続けたという事は、もしかしたらこれは『努力』と言い換えてもいいのかもしれないと思った。
普通の人がこの話を聞いたら、放送大学について『基礎学力のすっぽ抜けた奴でも卒業できる三流大学なのか?』と思ってしまうかもしれない。しかしそうではない。放送大学で行われている教育は『本物』なのだ。
放送大学では有名大学の教授が客員教授としてやってきて授業を行う。それは放送授業だけではなく面接授業と呼ばれるスクーリングでも同じ。それだけじゃない。学生は、学歴としては弱い通信制大学に自らの意思で入学し、孤独に教材と格闘しながら、スケジュールを合わせてセンターまで単位認定試験を受けに行く。華やかなキャンパスライフとは無縁の、とても過酷な学生生活を強いられる。意思の弱い人では到底務まらない様な学生生活を続けつつ、各々が自らのペースで卒業を目指していく、そんな大学なのである。
だから放送大学には本当に勉強したい奴だけが集まってくる。これは教育機関のあるべき姿であり、放送大学が『本物』であると私が考える理由である。
特殊な大学
放送大学では私の様な馬鹿にでも分かる様に授業を作ってくれる。しかもレベルを落とさずにだ。放送大学は、大学入学の資格のない人でも入学を受け入れ、所定の単位を取れば正式に全科履修生にしてくれる。高認を受けていない人にも道を開いてくれている大学だ。だがら基礎教養が抜け落ちている学生が居る事は、始めから折り込み済みだ。
それが出来るのは放送大学が文科省と強い繋がりを持っている所為である。放送大学の運営は『放送大学学園法』で定義されており、岡部前学長曰く『国立大学より国立な私立大学』という位置付けになっている。こういった特殊な事情により、放送大学は既存の教育からこぼれ落ちてしまった人の再教育の為の受け皿となっているという側面がある。こう考えると、放送大学は私の為にある様な大学だったのだ。
努力とは馬鹿に与えた夢である
立川談志という噺家が残した名言に『努力とは馬鹿に与えた夢である』というものがある。これを普通の人が聞いたら『努力すれば馬鹿でも成功できると思っているなんて馬鹿はやっぱり馬鹿だなあ』という意味で解釈するかもしれない。しかしこれはそうではない。談志師匠は『努力は裏切らない』という事を知っていただろうと思うからだ。
馬鹿が何かで成功しようと思ってもそれは簡単ではない。何かやっても上手くいかない事の方が多いだろう。だからと言って全てを諦めてやさぐれていてもダメなのだ。たとえ誰からも評価されない様な事であったとしても、やっている事を放り出さず、努力し続ける事だけが『馬鹿に与えられた唯一の活路だ』と言うことが出来る訳で、つまり『夢を見る事を諦めてやさぐれていてはダメだ』『努力という夢を見ろ』というのが、この名言の本当の所だと私は考えている。
商いは馬鹿になれ
その他にも古典落語の世界でよく出てくるフレーズに『商いは馬鹿になれ』という言葉がある。商人が商売をしていても、いい事よりは悪い事の方が多いいだろう。嫌な客もたくさんいる。でも、それで嫌になって商売をコロコロ変えてはいけない、『馬鹿になったつもりで辛抱しろ』というのがこのセリフの意味する所だ。このセリフと談志師匠の『努力とは馬鹿に与えた夢である』の『馬鹿』は同じ意味での『馬鹿』なのだと思うのだ。つまり『努力』とは『辛抱する』事なのではないか。
辛抱し続けた13年
私が放送大学に13年間も在学し続けたというのは、よくよく考えてみれば間抜けな話だとも思う。だが、病気の症状で何も思い通りに行かない様な闘病生活を送る中で、それでもめげずに辛抱し続けた13年間は、決して無駄ではなかった。今学期を全うすれば夢にまで見た『卒業』が遂に現実のものとなる。私の病気では知能が少し下がるし、服薬している薬で更に下がる。ハッキリ言って勉強は病気のリハビリに一番向いてない。主治医からもそう言われていた。それでも私が勉強を続けられたのは、ひとえに私が『馬鹿』だったからなのかもしれない。私は談志師匠の名言(努力とは馬鹿に与えた夢である)を地で行ってしまった。人が見たら『もっといい方法はいくらでもあるのに』と笑うかもしれないが、私は馬鹿だからこれしか出来なかったのだ。
大学卒業は目前となった。これは私の『粘り勝ち』である!