パソコンをやめる そしてiPadへ完全移行

以前の宣言通り、私はパソコンをやめてiPadへ完全移行した。情報学者の夢は無残に敗れ、Web開発もしないならもはやパソコンなんて要らない。iPadで全ての用事が事足りる。

しかし私にとってパソコン、特にMacは人生そのものだった。精神病だと分かる前、夜学の高校に通ったり、また引きこもりとして暮らしていた頃からの付き合いだ。パソコンは私の生活の中心だった。それをやめるのは辛い。

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本物のヒトとは老人の事かもしれない

私達は本当に人なのか。実は『ヒトのようでヒトでないモノ』ではないのか。どうにもそう思われる。今までの記憶を探っても、おおよそ人らしい人に出会った記憶が無いことに気付く。世界を埋め尽くす『ヒトのようでヒトでないモノ』を、私は『ヒト=モドキ』と名付けることにする。

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どういう訳か女性の書いた文章しか読めない

私は本を読むのが大の苦手である。本は苦痛でしかなく面白くも何ともない忌むべき物だった。しかし勉強をするにしても新聞を読むにしても活字は避けて通れない。私はそれがコンプレックスだった。だが私は自分の脳味噌の構造について画期的発見をしたのだ。それは単純明快だった。『女性の書いた文章なら何の苦もなく読める』という発見だ。

ある時私は放送大学のテキストと格闘していた。私は学問を修めることを志していたので、大学卒業は絶対条件だ。なのに大学から送られてくる大量のテキストが、私にとって高いハードルだった。

しかし『日本語からたどる文化』という授業のテキスト(本・印刷教材)を読んでいるうちに今回の妙な発見があった。この科目は大橋理枝教授とダニエル・ロング教授、二人の教授による科目だった。全15章のテキストは、章によって二人が分担で執筆していた。私はロング教授の章はこれまでのように辛かったが、大橋教授の章はいとも簡単に読み進めることが出来るのだ。

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差別を生む脳の仕組み 志気の考察と持論

人が何かを見たとき、それが何であるかを認識すための順序というものがあるようだ。これを仮に識別順序と呼ぶことにする。

人は何十何百の評価を瞬時にこなし、相手が何であるかを判断する。その評価の結果、相手が敵か味方かを判断している。判断のための優先順位が上位であるほど、その要素は重視される。優先順位が下位の項目で良い判断が多く出ても、上位のたったひとつの判断に勝てないこともある。これらの人に内蔵されているプログラムを意識すると、差別の問題に直結していることがよく分かる。以下解説を行う。

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夢をあきらめさせようとする最悪の助言

人の願いというものは非常に強力な力を持っている。人類に与えられた力の中では最も強力なエネルギー源だ。その力は恐らく愛の力よりも強力だ。愛は相手の幸せを願うこととも言える。もし愛情余って憎さ百倍になり、相手の不幸を願うような事になったらどうだろうか。感情としての愛は相手の幸せも不幸も願うことが出来る。つまり本質的には「願う」という部分が重要なのである。願いは言わば様々な感情の「動力源」としての性格を持ち合わせている。

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富・名声・力 異質な者と協力する事で成功する

富・名声・力の三点すべてを手に入れることは不可能である。これは私独自の世界認識ではあるが今のところこれを否定する根拠を私は知らない。ただし二つまでなら可能だ。

『富と名声』を手に入れた人物として最も想像しやすいのは芸能人である。芸能人の名は国中に知れ渡り、ギャラとして莫大な富を手に入れる。しかしその二点を手に入れた代償で三点目の力を手に入れることはできない。

芸能人が自衛隊を動かすことはないし、また政治の世界で大成することもない。芸能人がその知名度を利用して政界に進出することがあるが、大抵の場合ほぼ無力に等しい。

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人類は増えすぎた? 文化の担い手という視点

あちらこちらで『人類は増えすぎた』というセリフをよく聞くようになった。それはエネルギー問題や食糧問題を議題とする時に出やすい。陰謀論者に至っては、世界の人口を減らすための人工的な災害を起こしたり、ウィルスをばら撒くなどの計画が裏で進行しているといった間抜けな妄言を平気で言う。一体何を持って増えすぎたと言っているのか私には分からない。

逆に私から言わせるとまだ全然足りてない。

それはなぜか。私が論点としたいのは文化の多様性と、それの担い手である人が全然足りないということについてだ。

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断捨離 寝室になぜ会議テーブルが2つも?

今年の大きな目標の一つに断捨離をするということを掲げた。それは以前のエントリーで宣言した通りだ。今年も半分が終わったが、断捨離の進捗状況は良好だ。

以前の私の部屋は常軌を逸していた。六畳強の部屋を間仕切りで二つに分け、片方は寝る場所で、もう片方が日常的に過ごす場所だった。この狭い部屋には、なんと学校や会社で使うような会議テーブルが二つもあり、それが広大な作業スペースを作っていた。もちろん上にはパソコンが乗っかっており、シンプルかつ効率的な空間で私は多くの時間を過ごしていた。

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センセーショナリズムを用いた報道への疲れ

なんて言ったらいいかよく分からないが、ニュースがヒドイ。

どうヒドイのか良く考えてみたら、行き過ぎた『センセーショナリズム』というものが原因だ。なんでもオーバーに、時に歪曲して大々的に情報が流れていく。テレビのニュースも新聞もネットメディアもどうにもならない。嫌でも目に付くからついつい確認のために観るのだが、内容なんてなんにもないものばかりで、その度に「またか」「時間を無駄にした」と思う。

私はネットのニュースを見るとき、どれがセンセーショナリズムを用いて私にクリックさせようとしているのか、無意識のうちに仕分けるようになった。頭が自動的にスパムフィルタのように機能しているのだ。

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戦争・原発・東日本大震災と広がる無関心

『自分に迷惑が掛からなければ、後はどうでもよい。』この思考をやめよう。これからお堅い話を始める。

日本人は「戦争は良くない」と皆口を揃えて言う。私は、これは日本の過去の歴史を考えた上で出た日本国民の総意なのだと思い込んでいた。しかしよく考えると実態がどうも違う。庶民がこの言葉を言う時頭に浮かべているのは「自分が戦争に行かなくてはいけないかも」とか「息子や知り合いが戦死するかも」とか「爆弾が降ってきて家も財産も失うかもしれない」という様な事だ。この時、国がどうとか、弱者がどうなるとか、人が死ぬ事についてなど、深く広く考えている人は稀だ。

人が死ぬ事について庶民の考えはいたって単純なようで、自分や家族が死ぬのは嫌だが赤の他人ならどうでもよい、という心理が働いているように思う。私はこの庶民の感覚に気付いた時、庶民のレベルに落胆した。そして人のくだらなさを嫌という程感じた。

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障害者にとっての夢のiPhoneとジョブズの死

私は今、au回線のiPhone 4Sを愛用している。

日本ではソフトバンクが一番最初に取り扱いを始めたiPhoneであるが、それは3Gという第二世代の機種であり、それ以前に、海外では初代iPhoneが熱烈なムーブメントを巻き起こしていたことを知る人は少ない。私はその初代iPhoneを故スティーブ・ジョブズが発表し、プレゼン&デモを行った一部始終をネット越しではあるがリアルタイムでチェックしていた。何故なら私は熱狂的なアップル信者だったからだ。

初代は残念ながら通信方式が異なるために日本での発売は技術的に不可能だった。私は大変残念に思った。私はパソコンという文化で育った。私にとって、メールもウェブもパソコンが標準であるということは疑いようのない事実だったが、日本では後にガラケーと総称される物が全盛を極めていた時代。その状況を苦々しく思っていた時iPhoneが登場したのだ。私にとってまさに救世主であった。

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統合失調症の私を支えた偉大な祖父のこと

現在午前五時。今私は真っ暗な公園にいる。私はこれを紅茶花伝とタバコを片手にベンチに座って書いている訳だ。紅茶花伝には大変な思い入れがあり、今は亡き大切な人と過ごした日々などを思い出している。

私の闘病生活も長いものだが、かつて私には最強の協力者がいた。その人物は私の母方の祖父で、協力者でもあり、良き理解者でもあった。私は大のおじいちゃんっ子で、子供の頃は一緒に住んでいたこともあるし、我が家が引っ越してからも極近場に住んでいたので大変可愛がってもらった。

祖父は私が病気になった後も毎日のように我が家へ様子を見にやってきた。引きこもり同然の生活をしていた私にとって、祖父は外の世界から来る数少ない存在だ。

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精神障害者が家庭内暴力を克服 その処方箋

今でこそ平和な日常を送っているが、私の病気の初期は地獄であった。ただのひきこもりと化した人生に苛立ち毎日のように荒れて暴れた。なぜ自分ひとりだけが社会から取り残されてしまったのか、絶望と怒り、世の不条理と世間への妬み、そういったものが常に溢れかえり爆発した。

終いには母の一言一句が全て癪に触り、座布団でばすばす叩くようになった。母は包丁で防衛する。弟は隣の部屋でじっと耐えるが、さすがに限界がある。弟も襖をばすばす叩く。怒り狂っている最中の私は我を忘れて「電気ポットの湯を頭からあぶせてやる」と宣言。母は必死で止めた。結局最悪の自体は避けることができた。

もしあの時あの一線を越えてしまっていたら、弟は全身やけどで悪くすると死んでしまっていたかもしれない。一生消えぬやけどの痕が残ったかもしれない。我が家は幾度もそういった修羅場を経験したが、私は一度もその一線を超えることはなかった。だから今があると言ってもいい。

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